deeplytruly diary

愛と音楽のある生活 ありのままの普段の暮らしを記録していくブログ

今朝のあまのじゃく

今朝の私

素直に謝ることも、素直に寂しかったということも、素直に傷ついたということもできなくて、隠れていた。

本当は気付いてほしいのに隠れていて、気づかずに通り過ぎたあなたを追いかけたこと、あなたは知るよしもなくて、私は一人で泣きそうになっている。 

どこに隠れていたと思う?教えない。

 

でもあなたのポットにコーヒーを入れながら、

サンドイッチを作りながら、あなたのことを考えていたのは確か。

時間がなくても少しでもタンパク質と野菜を摂れるように、

卵とチーズとハムとキャベツを

溢れない程度に詰め込みました。

 

そういうところに、一応、私なりに、それなりに、気持ちを込めているつもりなんだよ。

 

あなたは知る由もなくて、たぶん気づきもしなくて、

おいしかったよ、え?卵入ってたっけ?とか言うかもしれない。

 

サンドイッチがあった場所に、代りに小さなメモがあった。

お昼の用意ありがとう、って。

 

コーヒーのポットはもって行かなかったみたい。

多分気づかなかっただけだろうから、一人で傷つくのはやめよう。

 

あなたは優しいと思うよ。

でも

私はいつだって本当のことを知りたいって思ってしまう。

見せかけだけじゃいやだって思ってしまう。

 

ほんとうに、確かなものってあるのだろうか。

 

そんなことを考えながら

今日は私はバッハのインヴェンションを練習します。

 

 

 

面倒な女の自覚あり

こんな日もある。

うん。それを認めよう。


私は面倒な女だと思う。

寂しがりやで、甘えん坊で、嫉妬深くて、素直じゃなくて、わがままで、押しつけがましくて、しつこくて、しつこくて、

自信がなくて、いつも不安で、確認したくてたまらなくて、我慢ができなくて、いい年して「なぜ?どうして?」が多くて。

 

重いのはわかってる。

わかってるにきまってるでしょう。でもいつも言ってしまった後に、やらかしてしまった後に、自分で自分に絶望する。

 

ただ信じて、ただ安心して、ただ素直に、ただ受け止めて、ただ愛されたい。

ただ信じてなさい、何も不安はないのだから安心しなさい、素直になりなさい、言われたままに受け取りなさい、愛しているよって

あなたは言うけど。

 

頭の中で流れているのは

Ombra mai fu(largo) オペラ ’Serse' 樹木の陰で(ラルゴ)

 

嵐のあとの私の心の中に流れる曲が、思いのほか穏やかな曲なのが不思議。

ピアノでも弾いてみた。

夫の本棚から漁ったイタリア歌曲集の中に見つけて。

 

世界は奇跡であふれている

世界は、日常は、奇跡であふれている。

このことを忘れがちだ。だから忘れないでいようと思う。

すごいことが起こっている、すごいことが起こっている!

すごい!素敵!きれい!うれしい!ありがとう!

こんな気持ちでいることで、その波動がさらにすごいことを呼び寄せてくれるような気がする。

 

例えば部屋のユリの信じられないくらい良い香り。

朝聞こえてくる鳥のさえずり。

おいしい食べ物。

うれしいお知らせ。

くっついて眠る肌のぬくもり。

涙が出るほど素敵な音楽との出会い。

 

世界は奇跡であふれている。

今年はこういう気持ちを大切に生きていこうと思う。

ゾンビの中心で、愛をさけぶ(ネタばれ注意)

変な映画を見た。けれど、妙に感動した。

 

 

 

自粛生活が始まったころからプライムビデオにすっかりお世話になっているのだが、普段あまり見ないゾンビ物をと思って、嫌がる夫を説得し「ゾンビの中心で、愛をさけぶ」(原題「ZOO」)を見た。2019年の映画で、なんとなく映画館でこの予告版を見たことがあるような気がして気になったのだ。

ジャンルはホラーだったし、ゾンビものという期待感で(普段見ないのでワクワク)いっぱいだったのだが、始まってみたらゾンビは全然出てこない。

 

倦怠期でなんとなくすれ違う夫婦が主人公。それにはわけがあるのだけれど。ある日人々がゾンビ化する伝染病が発生し、外ではみるみる感染が拡大、二人はマンションの部屋に閉じこもり救助を待つことに。状況が悪化する中ゾンビの脅威だけでなく、マンションの隣人との不穏な空気や強盗など、様々なトラブルが二人を襲う。救助を待つ間に食料も尽きてきて、脱出を試みるけれど・・。

 

ゾンビ映画と思ってみると、え?という展開。というのもゾンビはほんのちょっとしか出てこないから。これはどちらかというとラブストーリーの部類なんだと思う。

そういう理由から評価は割れていて、退屈だというレビューも多いのだけれど、私は妙に感動してしまって、そしてとても印象深い映画の一つになった。

 

というのも、この夫婦の関係性が変わっていく様子がすごく共感できるものだったのだ。この夫婦は子供の死産がきっかけでなんとなくギクシャクしてしまい、その関係は冷え切って崩壊寸前というところから物語は始まる。お互いへの関心とか、一緒に何かするという感じでもなくて、一応夫婦としては成り立っているけれどいつ壊れてもおかしくない、妻のほうは言いたいことがあるのだけど、それをなかなか言えずにいたりする。夜寝るときも、一緒のベッドにはいるのだけれどなんとなく距離感があって、見た感じベッドにクッションで境界線があるような状態だった。

 

それが、伝染病の拡大でマンションの自室にこもり救助を待つという状況になり、協力せざるを得ない状況になっていく。妻のほうがなんだかぶっとんでいて、仕事柄らしいのだけれど覚せい剤やら銃やら、隠し持っていたものがどんどん出てくる。夫は最初はドン引きしているのだけれど、なんというかとてもやさしくて、話を聞いてくれる姿勢もあって、二人の歩調がだんだんあってくる。

 

備えあれば、という夫の提案で二人でトレーニングをしたり武器を用意したり、妻のほうはワインを飲みながらだったりクスリをやりながらというのがおかしかったのだけど、一緒に何かするというのがとてもいいなと思えた。

 

いくつかの危機を乗り越えるなかで、二人の絆はどんどん深まっていく。一緒にお風呂に入って心の内を打ち明けたり、未来のことを話したり、寝るときも手をつないで寝るようになったり。もう一度最初から関係を築こうと、おしゃれをしてデートをしてみたり。

あぁ、やっぱり夫婦はいいな、と妙に感動した。

 

そしてとうとう食料も尽きてマンションを脱出しようと試みる二人。武器を用意して、装備を整えて挑むのだけど、これがなんと失敗、結局また部屋に戻ってきてしまう。

そしてなんということか、妻のほうが噛まれたというのだ。

 

妻が感染しただろうということになったとき、私はてっきり早い段階で夫が妻を殺してしまうのではないかと思った。

だけど違った。生きていれば発症しないのではないか、もう薬が開発されているのではないかと前向きな話をし、そして将来の夢を語りあって、希望を持たせようとしてくれる。キャンドルいっぱいのお風呂を用意してくれて、なんと飢えを感じるという妻に自分の血を飲ませてあげた。まるで赤ワインをもっていくかのようにお風呂の妻に血の入ったグラスを渡す。このあたり、涙が出た。

最後は結局悲しい結末ではあったのだけど、どんな時でも一緒にいて、どんな時でも見捨てず離れず、愛を貫く夫婦の姿はとても美しく感じた。

ゾンビが全然出てこない、救助が全然来ないなど突っ込みどころはたくさんあるのだけれど、夫婦の愛の話としてみると、これがなかなかいいお話。なんとなく、コロナ禍の今の生活を重ねてみたり。もし会話もなく、一緒にいるのが苦痛な間柄だったら、どんなに苦しかっただろうなんて考えてしまう。こういう時だからこそ、助けあったり、一緒に何かをしたり、より関係を深めていけたら素敵だ。

 

映画を見終わってすっかりあきれている夫に、もし私がゾンビになったらどうする?血を飲ませてくれる?と聞いてみた。そしたらますますあきれられて、とりあえず薬ができるまで檻に入れて生かしておく、というおざなりな答え。

平和で変わりばえのしない生活の中にいると、ともすると大切なことを忘れがちだ。本当はありがたいものも、あって当然のように思ってしまったり。この映画のような非日常はないかもしれないが、たとえばコロナもしかり、災害とか、病気とか、ケガとか、日常が一変するようなことが起こる可能性は誰にでもある。そうなって初めて大切なことに気が付いたら、どうしてもっと一緒の時間を大切にしなかったんだろう、どうして最後にあんなことを言ってしまったんだろう、どうしてもっと優しくしなかったんだろうときっと後悔してしまうだろう。だから、日ごろから感謝の気持ちを忘れないで過ごしたいものだ。

年をとっても、どちらかが病気になっても、動けなくなったとしても、お互いに支えあって、お互いを大切にして、最期のその時まで愛のある夫婦でいたいな、と密かに思うのであった。

世界の見方を変えたらすごくたくさん幸せ見つけた件

世界をどう見るかを変えれば世界が変わる、というのは本当だと思う。
いつもいい気分でいるように気をつけようと思ったら、しょっちゅういやな、悪い思考が頭に浮かんでいることがわかった。
今まではそれに執着して、グルグルと同じ思考の沼にはまってしまい、そのうち周りの人まで巻き込もうとして事がどんどん大きくなる。とまらなくなってしまうと大惨事になり、心身ともに疲弊するという悪循環だった。
嫌な思考が本当にしょっちゅうなものだから困るけれど、気づいたらその思考を手放し、良い思考に集中するように気をつけようと思う。

先日お金に関するびっくり体験をして、びっくりだけど嬉しい気持ちになったが、その後も嬉しいことが続いた。忘れていた頃にポイント還元があってかなり大きな金額のポイントが加算されていたり、お金の話ではないけど、例えばレストランのウェイティングの番号が私のラッキーナンバーで、それだけでうれしくなってしまったり。夫が何気なく言う言葉が、実は映画みたいにすてきでありがたい言葉だと再認識したり。
なんとなく、いいことがありそう、なんでも出来そう、みたいなワクワクする感じが湧いてきているような気がする。
ほんとうに、少し見方を変えるだけで、実は嬉しいことやすてきなことが目の前にあることを知る。もしかしたらもっとすごいこと、すてきなこと、楽しいことがそこらじゅうにあるのかもしれない。
泥沼思考に陥りがちな私には、いい気分でい続けることは難しいことだけど、そんななかでもずっと心に刻みこみ信念として内に秘めていたものを、そう、最高の夫を手に入れたのだから、自分と、この世界を信じてみよう。そう密かに決心した。

「願えばかなう  エイブラハムの教え」を読み始めた。
実践して、記録していきたい。




引き寄せ・波動・潜在意識の不思議。魔法の動画でびっくり体験

今日は驚きの体験をしたので記録しておきたい。

もとはと言えば一冊の本がきっかけだった。

吉岡純子さんという女性が書いた『日本人こそ宇宙にお願いすればいい』という本の紹介動画を見たのだ。

もともと思考が現実を作るとか、言葉が現実を作るとか、潜在意識というもののすごさについてはなんとなく理解しているつもりで、実際体験もしているので疑いようもないのだけれど、振動数とか波動という観点からはあまり考えていなくて、漠然としたイメージしかもっていなかったかもしれない。いわゆる引き寄せの法則についても、なんとなくわかっていたような気はしたけれど、「スピリチュアル」というと多少の違和感を感じてしまうが、量子論では、とか波動の法則によれば、という言い方をすると印象が全然違ってくる。まさに宇宙の不思議そのものだ。

YouTubeでこの本の著者の動画を調べてみたら、吉岡さんというのはとても明るくて楽しそうな女性だったが、大変な時期を乗り越えて今のお姿があるらしい。そんなこんなで見つけてしまったこの動画。吉岡さんは波動を高める、波動を調整する、という言い方をされていたが、このクリスタルボウルの音源、聴いてみたらこれがとてつもなく気持ちよくて、正直驚いた。誤解を恐れずに言うならばエクスタシーとでもいおうか、まさに恍惚とするような音で、ずっと浸っていたくなるような感覚。鳥のさえずりのような自然音と、クリスタルボウルの音で、画面上にはルーン文字も使われているらしく、「見る」ものということだが私は音だけに集中していた。

「聴くだけでお金の軌跡が起きる」なんて言われたら、聴く人によっては胡散臭いとしか思わないかもしれないのだが、私はとても心地よくて、家事をするときにもしばらくの間聴いていた。

その後。

なんと現金書留が届いたり、返金があったり、まさかと思ったが『なぜかお金が入ってくる』という現象が起こったので、これは興味深いと思い、記録しておこうと思った次第だ。

 

気分良くしていること、波動を高い状態にしておくこと、という点で見ると、去年までの私は全然だめだったと思う。怒り、妬み、不信感、劣等感、自己否定、そんなこんなのネガティブ全開。気分のふり幅が大きいので、とてもポジティブな時も多少はあったということと、いつもポジティブで楽しそうな夫がそばにいたおかげで多少調整されていたかもしれなけれど、とてももったいないことをしていたような気がしてならない。

夫にも楽しいことをたくさんしよう、嫌な話さえ思い出さなければハッピーなことしかない、未来は薔薇色みたいなことをいつもいつも言われていた。

今年は、いつも気分よくいることを意識してみようと思う。成功するから幸せなのではなく、幸せだから成功する、ということらしいし。

 


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『あした死ぬかもよ?』 を読んで。思いっきり生きよう

 

 

 

人生最後の日に後悔したくない、そう思うことはあるのだけれど、もしかしたらまだ私は死を自分の問題として真剣にとらえていないかもしれない。

 

人は必ず死ぬ。

小さい子どもだったころ、私はこの事実を受け入れられなくて、怖くて怖くて夜眠れなくなるほどだった。

でも今はどうだろう。人生40年生きてきて、大切な人の死にも何度か直面して、自分自身もいろいろなことを経験して、なんとなくは意識するようになってきたかもしれない。

でも80歳まで生きるとしたら折り返し。もしかしたら明日死ぬかもしれないとしたら、私はこのままでいいのだろうか。

 

この本を読んで、最期のその日に後悔を残さないように、自分自身への制限を外すというところはすごく共感できた。

どこかで、自分には無理だとか、今じゃない、とか、そんなの夢のまた夢、とかそんな風に自分自身に制限をまだかけているかもしれない。

あとは楽しんではいけないとか、気持ちいいことをしてはいけないとか、なんとなくそういう思い込みというか、自分を制限している感じがまだあるかもしれない。夫にたまに言われるのだ。「楽しいことしちゃだめだと思っているでしょう?」と。「僕を馬鹿だと思ってるでしょう?」と。

実際夫は人生を楽しんでいるように見える。やりたいことをやって、好きなことをして、人のためにではなくて自分の人生を生きている。たまに「え?」「は?」と思うようなこともしてきているし、少々社会の慣習から外れているように思えたりすることもあるけれど、でも、人生は一度きりで、明日死ぬかもしれないと考えたら、本にも書いてあったけれど「思いっきり生きる」ほうが良いし、そういう意味では夫は見習うべき存在だと思った。

 

私は小さなことにくよくよしたり、悩んだり、悶々としたり、そういういいかもしれない。自分の気持ちや自分の欲望を隠したりないことにしたり、しているかもしれない。

 

あと10年で死ぬとしたら。あと1年で死ぬとたら。あと1か月で死ぬとしたら。

あと1週間で死ぬとしたら。明日死ぬとしたら。

死を意識することで、自分の本当の願いや本当の力が出てくることを信じて。

思いっきり生きよう。

 

 

 

昔読んだ江国香織さんの詩集にこんな詩があった。

 

どっちみち

100年たてば誰もいない

私も あなたも あの人も